【青森・津軽】太宰治 小説「津軽」の風を感じる旅 〜 太宰文学と津軽半島の絶景を味わう感動ドライブ〜

太宰治 小説「津軽」の津軽半島へGO!

太宰治の生家「斜陽館」、旧津島家新座敷「太宰治 疎開の家」など、金木町を散策した後は、小説「津軽」に出てくるスポットに立ち寄りながら、太宰治が旅した津軽半島を時計回りでドライブしました。

太宰治の名作「津軽」は、34歳の太宰治が出版社からの依頼を受け取材旅行(1944年5月〜6月)に出かけたときのことを綴った小説で、津軽半島を旅する前に読みたい1冊!たとえ太宰ファンでなくとも、かつての津軽を知った上での旅は感動もひとしおです☺︎

※小説「津軽」以外の津軽を舞台とした作品は、思ひ出・帰去来・故郷・庭・親といふ二字・兄たち・嘘・雀・十五年間・親友交歓・やんぬる哉・魚服記(金木)、おしゃれ童子(金木・弘前)、服装について・チャンス(弘前)など。

津軽富士と呼ばれる「岩木山」

弘前市と鰺ヶ沢町に位置する標高1625mの青森県最高峰「岩木山」は「津軽富士」とも称され、日本百名山に選定されている山。写真は五所川原エリアから眺めた岩木山です。

太宰治は小説「津軽」の中で岩木山を「したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらゐに嬋娟たる美女ではある」と喩えています。

私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまつて、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いといふ伝説もあるさうだが、米のはうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のはうは、どうも、心細いやうに、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせゐかも知れない。(太宰治 小説「津軽」より

深浦町にある「千畳敷海岸」

「千畳敷海岸」は、1792年の大地震によって地盤が隆起してできたという岩浜。津軽藩の殿様が、畳千畳を敷いて宴を開いたことから千畳敷と呼ばれるようになったそうです。1993年この地に太宰治の文学碑が建立され、国道101号線を少し南に下った深浦浜町には太宰治が宿泊した旧秋田屋旅館を改築したという「ふかうら文学館」があります。

右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になつた斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼と称するのださうだけれど、直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よつぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。(太宰治 小説「津軽」より)

自然豊かな汽水湖「十三湖」

津軽半島北西部にある周囲約30kmの「十三湖(じゅうさんこ)」は、岩木川をはじめ、13の河川が流れ込むことから十三湖と呼ばれているそうです。(近くに13の集落があったなど諸説あり)ここは日本海岸の海水と淡水が混合する自然豊かな汽水湖で、十三湖に浮かぶ中の島ブリッジパークでは、毎年4月下旬~9月末日までシジミ拾いができるほか、キャンプ場やアスレチック場などのアウトドアが楽しめるスポットにもなっているようです。

写真は羽黒崎から望む十三湖。十三湖に浮かぶ中の島や遊歩道橋、風力発電の風車などが見えます。

津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バスは山路をのぼつて北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしつかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やつぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂ひが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きてゐる。東海岸の竜飛などに較べると、ずつと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛つたやうな、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて、さうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。(太宰治 小説「津軽」より

しじみラーメンの人気店「和歌山」にてランチ

十三湖のシジミは、島根の宍道湖と日本一を競う漁獲量を誇る「大和しじみ」が特産とのことで、しじみラーメンの老舗「和歌山」にて遅めのランチをいただきました。

注文したのは、しじみ定食と大貝の特製しじみラーメン(中貝もあり)。定食のしじみ汁は、旨味たっぷりのお出汁で小さめのしじみがゴロゴロ入っていました。特製しじみラーメンは思っていたよりしじみの量とサイズが小さめな印象でしたが、しじみ自体は美味しく優しいスープ。麺は中細縮れ麺の柔らかめなので子供やお年寄りにも食べやすそうです。14時過ぎ頃の入店だったので店内は空いていました。

しじみラーメン和歌山 十三湖本店
青森県五所川原市十三羽黒崎133-22
0173-62-2357

国道339号線を北上

十三湖をあとにして海岸線沿いの国道339号線を北上しました。写真の海は磯松海岸です。

中泊町小泊に佇む「小説 津軽の像」

中泊町小泊(なかどまりまち こどまり)にある「小説 津軽の像記念館」に立ち寄りました。

取材旅行に出た太宰治は、小泊に住んでいるという情報だけをたよりにタケさんを探しあてます。子守として14歳で津島家(現斜陽館)に奉公したタケさんは、3歳から約6年間を一緒に過ごした太宰治の育ての親と言われています。

「六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。」(太宰治の自伝随筆「思い出」より)

記念館の前にある「津軽の像」は、小泊小学校で子どもの運動会を見ていたタケさんと約30年ぶりに再会を果たし、一緒に運動会を眺めている姿を再現した銅像で、近くにはその時の様子の一部が刻まれた文学碑も建立されています。

「たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。(太宰治 小説「津軽」より」


小説 津軽の像記念館
中泊町大字小泊字砂山1080-
0173-64-3588

日本海の絶景ドライブルート「竜泊ライン」(国道339号)

小泊からは七ツ滝〜眺瞰台〜龍飛崎と、約20㎞の豪快な曲線のドライブルート「竜泊(たつどまり)ライン」を北上しました。

国道339号線のうち中泊町小泊から竜飛岬までを結ぶ区間は極めて険しい海岸で、人が歩ける道路すらない交通の難所だっため、かつては小舟で往来していたそうです。

ウィキペディアには「津軽半島一周道路の完成を目指して1972年(昭和47年)に青森県が県道として造成を開始し、1982年(昭和57年)11月8日に全線開通、1984年(昭和59年)10月22日に通行可能となった」とあります。

日本海に面した珍しい滝「七ツ滝」

小泊~竜飛岬をつなぐ竜泊ラインの中央あたりにある「七ツ滝」は、7段の岩肌を伝い流れることから七ツ滝と名付けられたそうで、滝下からそのまま日本海に流れ込む珍しい滝です。

滝下から道路の下をくぐるトンネルがあるので海にも出られるようになっています。七ツ滝は国道沿いに突如現れるような地形にあるので知らないとそのまま通り過ぎてしまいそうな場所でした。路肩に駐車可能なスペースがあるのでぜひ立ち寄りたいスポットです。

坂本台から続くつづら折りの山岳路

海沿いはあまりに急峻な地形のため七ツ滝を過ぎた坂本台からはつづら折りの山岳路が続きます。ちょうど山岳路に入ったあたりから光に向かう3頭の竜雲が出現!竜泊ラインで竜雲が見られるなんて素敵すぎ♡と、テンションがググっとあがりました♪

竜泊ラインの最高地点「眺瞰台」

竜泊ラインの最高地点「眺瞰台」からの眺望は、まさに龍がうねるような道という名前の由来通りのワインディングロードです。

険しい山ですが、現在は道路舗装も完璧で交通量も少ないので大変快適なドライブルート!小泊〜竜飛間が通行可能になったのがわずか30年前ということに驚きと感動を覚えます。

日本海には天使の梯子がかかっていました。本当に素晴らしい眺望!山と海をめぐるこの美しい景観に感動しつつ、道路建設に携わった方々に感謝の気持ちが湧き上がります✨️

※通行料無料 冬季閉鎖あり(11月中旬 〜4月下旬)

竜泊ライン
青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩
0174-31-1228

津軽海峡を見渡せる本州の北端「龍飛崎」

小泊から約1時間ほどで本州の北端にある「龍飛崎」に到着!龍が飛ぶほど強い風が吹くという由来通り、この日も龍飛崎は強めの風が吹いていました。この竜飛の地下に1988年に開通した青函トンネルが通っているのだそうです。

津軽海峡の上空は雲が覆っていたものの、対岸の北海道白神岬まで直線約20㎞という短い距離なので、うっすらと北海道南端の山並みを見ることができました。

太宰治は小説「津軽」で、龍飛崎から先(小泊方面)のことを「この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」と描写しています。

龍飛崎灯台からの眺め

龍飛崎灯台の眼下に、太宰治が宿泊したという奥谷旅館(現 龍飛岬観光案内所「龍飛館」)が見えます。建物のすぐ後ろは急斜面の高い山がそびえ立ち、かつては今のように整備されていなかったでしょうから、怪物のように切り立った険しい山と海に挟まれた波打ち際を歩くのは本当に恐ろしかったことでしょう….。太宰治は三厩から龍飛崎へ向かうまでの様子を次のように書いています。

「私はN君に案内してもらつて、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行つたのである。……はじめは蟹田から船でまつすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスといふ計画であつたのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といつていいくらゐの天候で、乗つて行く筈の定期船は欠航になつてしまつたので、予定をかへて、バスで出発する事にしたのである。…..大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思ひ浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。….もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。(太宰治 小説「津軽」より)」


竜飛崎
青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜

北海道と本州を繋ぐ「青函トンネル入口広場」

竜飛岬から南東に下った今別町浜名にある青函トンネル入口広場に立ち寄ってみました。ここから全長53.85kmの海底トンネルで対岸の北海道とつながっているんですね〜すごい!そして上空一面に広がるうろこ雲の空もすごかったです。

※冬季は積雪状況により広場まで行くことができない場合あるそうです。(12月〜3月は凍結防止のため駐車場トイレは閉鎖)

「三厩〜今別」の空模様

三厩(みんまや)から今別(いまべつ)にかけても空いっぱいにうろこ雲が広がっていました。

平安時代末期の武将・源義経が、兄・頼朝の追討を逃れて蝦夷地へ渡ったという「義経北行伝説」は、ここ外ヶ浜町三厩地区に残された伝説なのだそうです。先を急いでいたのでスルーしましたが、三厩公園の近くに「義経寺」や義経が海を渡る際荒れ狂う海を鎮めようと祈りを捧げ授かった竜馬3頭を繋いだという伝説の岩「厩石(まやいし)」があり、太宰治は小説「津軽」の中で、義経寺を訪れたことや伝説にまつわる話などを友人のN君と話しています。

日没直前の「高野崎」

津軽国定公園に指定されている「袰月海岸高野崎(ほろづきかいがんたかのさき)」は、北に北海道、西に龍飛崎、東に下北半島が一望できる絶景の地!ギリギリ日没前のゴールデンアワーに間に合い、サンセットを拝むことができました。

日没前から日没後にかけて、空を赤く染める夕焼けや青く澄んだ空のグラデーションが素晴らしかったです。

岬の先端に灯台がありその先を下ったところに岩場と岩場を繋いでいるという「潮騒橋」と「渚橋」の赤い橋が見えました。

そしてナントここには高野崎キャンプ場という無料のキャンプ場がありました!朝陽と夕陽を拝めるこの素晴らしい絶景の地でキャンプができるなんて最の高!素晴らしい!!もう羨ましい限りです✨️


高野崎キャンプ場
青森県東津軽郡今別町袰月
0174-35-3005

「綱不知海岸」の夕焼け雲

綱不知(つなしらず)海岸の穏やかな水平線に、羽を広げた火の鳥のように赤く染まる夕焼け雲…

風の町と言わる「蟹田」の空

そして陽が沈んだ蟹田の夜空には、層雲に包まれた霞の先に黄金に輝く月が浮かんでいました。

「津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟蓬田、蟹田、平館、一本木、今別、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛の部落にたどりつく。….この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。さうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言つてもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えてゐる様子である。…..竹内運平といふ弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知つた事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、さうして私の中学時代の唯一の友人のN君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。(太宰治 小説「津軽」より)」

あとがき

たった数時間でクイックに周った津軽半島でしたが…、太宰治文学の風に乗って絶景を味わうという感動のドライブ旅となりました。刻々と形を変えていく素晴らしい空模様も見せてもらえて、津軽の神さまの祝福を受けたような気になり、もはや津軽ラブです♡

竜泊では光に飛翔する3頭の竜雲、眺瞰台では日本海に舞い降りる天使の梯子、高野崎では遠い山脈に横たわる巨大な竜雲と空一面のうろこ雲が太陽に向かっていくサンセット、綱不知では穏やかな水平線に羽を広げた火の鳥のように赤く染まる夕焼け雲、陽が沈んだ蟹田の夜空には層雲に包まれた霞の先に黄金に輝く満月…と、それはもうまるで物語のような空模様で…これほど感情豊かに心に刻まれた旅があっただろうかと思うほどに美しい風景の連続で、かけがえのない旅となりました。

できれば太宰治が旅の途中に宿泊したという深浦の秋田屋旅館(現 ふかうら文学館)や、龍飛崎の奥谷旅館(現 龍飛岬観光案内所「龍飛館」)なども訪問したかったのですが、日沈後の慣れない山道は避けたいので、時間がかかりそうなスポットは今回はスルーしました。すべて次回に持ち越しです。今度は何日かかけて泊まりながらゆっくりと…、また必ず津軽へ旅立とう!

最後は小説「津軽」の太宰の言葉で締めたいと思います☺︎ 

「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」