【東京・三鷹】太宰治終焉の地・三鷹の街に残した太宰の足跡を巡る1日

太宰治終焉の地・三鷹へ

三鷹は太宰治が1939年以降(疎開の一時期を除く)の晩年を過ごした街。太宰治ゆかりの場所である三鷹・跨線橋が2023年12月に取り壊されてしまうというので、工事開始が間近に迫った11月末、跨線橋の見納めと合わせて太宰治の足跡を巡りに三鷹まで車を走らせました。

太宰治ゆかりの場所マップ

かつて太宰治が住んでいた場所は、井の頭公園に近いJR三鷹駅の南側。その周辺にゆかりスポットが点在しています。

※マップ画像は三鷹市公式HPより引用

玉川上水沿いの玉鹿石とレリーフ

「玉川上水」は江戸時代前期の1653年(承応2年)、羽村から四谷までの全長約43kmに築かれた上水道。この玉川上水沿いの綺麗に整備された井の頭公園から三鷹駅への道(一方通行)が現在「風の散歩道」と呼ばれていて、まずはこの散歩道へ。

井の頭公園から少し行ったところに山本有三記念館があり、更にむらさき橋を過ぎた1ブロックほど先の歩道上に石がポツンと立っています。その横には「玉鹿石 青森県北津軽郡金木町産1996年(平成8年)6月」と書かれたプレートがあるのみ。遺族への配慮から何の説明もありませんが、この「玉鹿石(ぎょっかせき)」こそが1948年(昭和23年)玉川上水で入水心中して亡くなった太宰治を偲ぶ無名碑。履物が置かれていたという上水ほとりの向かい側に、生まれ故郷である青森県金木町から取り寄せた特産の玉鹿石が設置されたのだそう。当時は見通しの良い土手で深さもあったようですが、今は、せせらぎはおろか川の流れが見えないほど歩道沿いにびっしりと草木が生い茂っていました。

またすぐ近くには、太宰治の短編小説「乞食学生」の一節が刻まれたレリーフがあり、虚ろな表情で土手に佇む太宰治が写し出されています。物憂げな顔で彼は何を思っていたのだろう…この玉川上水建設には私の先祖が深く関わっているのですが、人を活かすため、生きるために作られた上水が、太宰治にとってはあの世へ誘う冥川になったのだと思うと、胸が締めつけられるような気持ちになります…。

「四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。・・・(太宰治著「乞食学生」より)」

ブックカフェスタイルの「太宰治文学サロン」

次に向かったのはさくら通り沿いにある「太宰治文学サロン」。1ブロック先、歩いてすぐの「まちづくり三鷹第1駐車場」を利用しました。ここは機械式立体駐車場で車高等の制限はありますが、1時間迄が200円、以降30分200円とちょっと他よりお得なのです☆

太宰治がよく通ったという酒屋「伊勢元」の跡地に建つ「太宰治文学サロン」は、太宰没後60年と生誕100年を記念して2008年に開設。そして昨年の2022年3月、珈琲やクッキーなどをいただきながら読書ができるブックカフェスタイルとなってリニューアルオープン。直筆原稿の複製や初版本など貴重な資料が見られる他、太宰治の全集、図録、研究書など1000冊以上の書籍を開架しています。

テーブル席が並ぶ中央には、太宰の終の棲家であった借家の1/25サイズ模型があり、縁側には写真をもとに模した人形が…、長女・次女・ニワトリたちといっしょにニコニコ顔の治さんです☺︎ 玄関横には後述の「井心亭」に移植された百日紅の木もちゃんとあります♡

このあと向かう「太宰治展示室」では、この模型の家を実寸で再現している家「三鷹の此の小さい家」を体感できるので、セットで見学するのがオススメです☆

マップやちょっとしたグッズなども販売。質問があればサロン内に常駐のボランティアスタッフさんが快く丁寧に説明してくれますよ☺︎入場無料で気軽に入れる雰囲気です。


太宰治文学サロン
三鷹市下連雀3-16-14 グランジャルダン三鷹1F
0422-26-9150

三鷹市美術ギャラリー「太宰治展示室」

JR三鷹駅南口前のCORAL5階三鷹市美術ギャラリー内に2020年12月8日開設された「太宰治展示室(三鷹の此の小さな家)」は、太宰治が生涯で最も長く住んだという晩年の家を実寸で再現した展示室。観覧料は無料です。

三鷹村下連雀113(現・下連雀2丁目)の借家は、約12坪半ほどの小さな家であったものの綺麗な新築で日当たりも良かったのだそう。展示室となっている3畳間(常設展)、4畳半(企画展)と縁側には、直筆の書簡、墨書、油彩、原稿(複製)などの貴重な資料が並び、6畳間には、掛け軸や文机、りんご箱で代用した本棚などがセットされた体験展示の書斎があります。こちらは撮影もOKということで文机の前に座ってパシャリ☆

太宰治はこの家を「三鷹の此の小さな家」「三鷹下連雀の家」「東京の私の草屋」などと表し、三畳間から見える夕陽を描写した「東京八景」、家族・知人をモデルに主婦の日記に仮託した「12月8日」など、自宅を含め馴染の店、井の頭公園など三鷹周辺を舞台にした数多くの作品を執筆。また終戦後は三鷹周辺に借りたいくつかの仕事場では「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」「グッド・バイ(未完)」など代表作となる名作を生み出したのですね。

毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻った。ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。(太宰治著「東京八景」より抜粋)


三鷹市美術ギャラリー太宰治展示室
東京都三鷹市下連雀3-35-1三鷹コラルビル5F
0422-79-0033

間借りした仕事場「中鉢家跡」

こちらは、1946年11月に疎開先の故郷から戻り、創作に専念するために仕事部屋として旧中鉢家の2階を借りたという「中鉢家跡」。商社に勤める女性が借りた部屋を出勤している間の15時頃まで間借りしたのだとか。その後建物は解体され、現在マンション前に案内板が設置されています。

短編小説の「朝」はこの部屋を舞台にした作品で、「ヴィヨンの妻」「メリイクリスマス」もここで執筆。1947年4月からは2番目の仕事場「旧田辺精肉店離れ(現第一勧業銀行)」で「斜陽」の続きを執筆。5月には3番目の仕事場「旧西山家」へ移って「斜陽」を完成させ、7月に4番目の仕事場「旧千草」へ。ここはよく通った飲み屋の2階だったそう。また、太宰と入水心中を図った相手の下宿先「旧野川家(現永塚葬儀社)」であった2階の1室も仕事部屋として使われ、1948年6月13日未明、この部屋から二人は玉川上水に向い入水心中したとされています。

太宰が愛したと言われる「三鷹跨線人道橋」へ

1929年(昭和4年)JR三鷹駅の西側に建設された高さ約5m・長さ約90mの陸橋「三鷹跨線人道橋(みたかこせんじんどうきょう)以下跨線橋」は、橋から眺める景色が良く太宰治のお気に入りスポットだったとして有名な場所。唯一健在する太宰治ゆかりの建造物と言われていましたが、老朽化によりついにこちらも撤去されてしまうことになりました。

跨線橋の階段と案内パネル

階段下に設置されていた案内パネルは、長い年月を物語るようにひび割れまくっていました。太宰治はこの跨線橋を愛し、友人をこの跨線橋に案内することもあったという説明とともに太宰治が階段を降りていく姿が写っています。

続々と跨線橋を訪れる人たち

三鷹の跨線橋は、鉄道ファンにも人気のスポットでもあるので、この日は多くの人が訪れていて、それぞれに別れを惜しんでいました。

今は危険防止のため橋の側面に金網が貼られていますが、陸橋で撮影された太宰治の写真と見比べると、昭和初期は柱だけだったのがわかります。また、柱の上部に電線や碍子らしきものが見えますが、いまはもうありません。

残された円形の時計台

かつてこの円形の土台には直径1mという日本初の電気大時計が設置されていましたが、数年前に撤去されたそうです。

デッカー社の刻印が入ったレールの柱

北側に移動してみるとこちらの柱は途中まで鮮やかなペパーミントグリーンのペンキが綺麗に塗られていました。なぜ途中で?もしやここだけ保存される?…首を傾げながら階段を降りようとすると、てっちゃんらしき若者が、やたらと柱の写真を撮りまくっているので、近づいてみるとレールっぽい柱に何やら英字が刻まれていました。

帰宅後調べてみると、「DICK KERR SANDBERG (DK) 1911」という刻印は、イギリスに存在した機関車・路面電車製造会社デッカー社の社名で、ドイツのカイザー社が、このデッカー社のサンドバーグ法という技術を用いて造ったレールであるということが判明。架橋当時は鉄不足で古い鉄道レールが柱に再利用されたそうで、他にも八幡製鉄所などのレールもあるそうです。さすがてっちゃん!見る所が違いますね☺︎ 

列車がズラリと並ぶ跨線橋からの眺め

三鷹車両センターには、中央線で活躍する列車がズラリ。この陸橋から線路を見下ろせるのもこれが最後です。見納めに背景の富士山も撮りたかったのですが、空がガスっていたせいもあってか見つけられませんでした。

かつて中央線を使って通勤していた頃は何気に通り過ぎていた跨線橋…無くなってしまうとなると急に名残惜しくなります…。

橋を所有するJR東日本は、文化的価値のある跨線橋の保存方法を三鷹市と何度も話し合いを重ねたそうなのですが…約100年前の建築基準で作られているため耐震強度が不十分など、維持費に加え改修費などにも莫大な費用がかかることがわかり、断念せざるを得なく撤去という結論に至ったようです。素晴らしき昭和の遺産がまたひとつ消えてゆきます…。

井心亭で今も生き続ける百日紅

跨線橋に別れを告げたあとは、駐車場に戻って車で三鷹の下連雀にある「みたか井心亭(せいしんてい)」に向かいました。

「みたか井心亭」は三鷹市が1988年に開館した和風文化施設。この井心亭そばに、かつて太宰治が住んだ平屋の借家があり、疎開時期を除く1939(昭和14)年9月から1948(昭和23)年6月まで家族と共に暮らしていたといいます。(家は全て取り壊され現在は私道となっていて入れません)ちなみに太宰ファンという又吉さん(小説「火花」で芥川賞を受賞)は、大阪から上京してきて最初に住んだ場所が、偶然ここの敷地跡に建てられたアパートだったのだとか。ミラクル御縁ですね!

太宰治の旧居はすでに無くなっているものの、太宰家の玄関横にあった百日紅(サルスベリ)が、井心亭の庭に移植され今も健在です。秋から冬へと移りゆくこの時期はほとんどの葉っぱが散って寂しい雰囲気ですが、夏から秋にかけてはピンク色の可愛らしい花が咲きます。見て!とばかりに生垣からひょっこり姿をあらわす様は、哀感の中に滲み出す太宰治のユーモアな部分を見るようで愛おしく、思わず百日紅の幹を手のひらでそっと撫でました。太宰治と共に生きていた木が今もなおここで生きている…なんだかジーンときます…。

「それじゃ、何を着ていらっしゃるの?」 「開襟シャツ一枚でいいよ。」朝に言い出し、お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く、家から出て行きたい様子でしたが、炎天つづきの東京にめずらしくその日、俄雨があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰をおろし、とてもいらいらしているように顔をしかめながら、雨のやむのを待ち、ふいと一言、「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」と呟きました。玄関の前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。「そうなんでしょうね。」私もぼんやり答えました。それが、夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。

雨がやんで、夫は逃げるようにそそくさと出かけ、それから三日後に、あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。それから、諏訪の宿から出した夫の手紙も私は受取りました。「自分がこの女の人と死ぬのは、恋のためではない。自分は、ジャーナリストである。ジャーナリストは、人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながら、いつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。実に奇怪な生き物である。・・・・・自分の死が、現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる事に役立ったら、うれしい。」などと、本当につまらない馬鹿げた事が、その手紙に書かれていました。男の人って、死ぬる際まで、こんなにもったい振って意義だの何だのにこだわり、見栄を張って嘘をついていなければならないのかしら。(太宰治著「おさん」より抜粋)


みたか井心亭
東京都三鷹市下連雀2-10-48
0422-46-3922

太宰治が眠る「禅林寺」へ

三鷹の街に残した太宰の足跡を巡る1日の最後は、太宰治が眠る禅林寺へ…。以前近くに住んでいたというのにここに足を運んだのは今回が初めて。毎年「桜桃忌」(太宰の遺体発見日であり誕生日でもある6月19日)には、全国から多くの太宰ファンが集まってくるようですが、この日は何の日でもない夕暮れ時、墓地は人影もなくひっそりとしていました。

森外を尊敬してやまなかった太宰治は、短編小説「花吹雪」の中で「私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓所の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」などと書いており、その意を汲んだ太宰治の妻・美智子夫人が禅林寺に太宰を埋葬。美智子さんはすごいお方です…。ほんとうに….。そしていま太宰治は森鴎外のお墓の斜め向かいに眠っています。墓石にはたくさんの花やお酒が備えられていました。

「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が萎縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地のり好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。(太宰治著「花吹雪」より抜粋)」


霊泉山 禅林寺
東京都三鷹市下連雀4-18-20

あとがき

18で太宰治の本に出会い、彼が逝去した年齢をとっくに飛び越え、また違った視点で太宰作品を読んでいる今日この頃…。そんな折、太宰治ゆかりの三鷹跨線橋が取り壊されるということで、久しぶりに訪れた三鷹の地…。太宰治の足跡を辿りながら、かつてこの辺に住んでいた頃の様々な記憶と相まって、感慨深い気持ちになりました。またいつかひっそりと足を運べたらと思います。