2024年10月中旬、長崎を訪問した際に軍艦島へ上陸するクルーズツアーに初参加しました。現在5社の船会社によって運航されており、今回は軍艦島クルーズ社のツアーにて出港。こちらのブログ記事は、ブラックダ…
【九州・長崎】世界遺産「軍艦島(端島)」へGO!軍艦島クルーズツアー体験レポ(上陸編)
2024年10月中旬、長崎を訪問した際に軍艦島へ上陸するクルーズツアーに初めて参加しました。現在5社の船会社によって運航されており、今回は軍艦島クルーズ社ブラックダイヤモンド号のツアーにて出港。こちらのブログ記事は、軍艦島上陸クルーズの体験レボ(上陸編)です。
目次
内海側から眺める軍艦島
長崎港から船で約40分ほどの距離(直線距離で約19km)にある「端島(はしま)」(以下軍艦島)は、伊王島、高島、中之島の次に位置し、海底炭鉱として日本の近代化を支えた小さな人工の島。ブラックダイヤモンド号の軍艦島上陸クルーズでは、最初に高島に上陸して軍艦島の概略説明と石炭資料館を見学してから、軍艦島に向かいました。
写真は内海側から眺める軍艦島の全景。まさに軍艦の趣です!岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶ外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。 軍艦島の東側に位置する長崎半島最南端の野母崎半島からも、この形の軍艦島が少し遠目で見られるのでしょうね。
そして軍艦島の上空には幸運を呼ぶ龍雲が飛んでいたんです。よしこれは上陸できるに違いないと確信しました☺︎ というのも、この日の天候は空は晴れて穏やかなのに海は少し強めの海風が吹いていたので、上陸できない可能性があるとガイドさんが言っていたのです。
※風速が秒速5m以上or波高が0.5m以上or視程が500m以下のときドルフィン桟橋の使用が禁止されるため軍艦島上陸は不可
白亜の70号棟「端島小中学校」
まずは軍艦島の周りを反時計回りに周遊。どんどんと軍艦島が迫ってきて、最初に近景で見えてきたのが端島小中学校。1958年に建築されたRC6階建て(7階は鉄骨で増築)の学校で、4階までが小学校、5階と7階が中学校(高校生は高島高校に船で通った)、6階には講堂・図書館・音楽室、7階には理科室などの特別教室が設けられ、1970年には体育館や給食設備など、次々と新しい施設が造られたそうです。
現在は潮風・雨風による劣化で崩壊が進んでおり、真白だったという校舎もだいぶくすんではいますが、その名残を感じることができます。全室が窓の大きいオーシャンビューだったとは贅沢なホテルみたい。一面の海が広がる最上階の窓からの眺めは最高だったでしょうね☺︎
かつては学校の最上階と右側の65号棟(鉱員住宅)が連絡通路でつながっており、多くの子供たちがここから通学していたようですが、現在は増築された7階部分と共に崩落しています。 右手前に見える低い建物はRC2階建ての教職員住宅「ちどり荘」。
島内最大の建物「65号棟(鉱員住宅)」
報国寮と呼ばれていた「65号棟(鉱員住宅)」は、コの字型をしたRC9階建て(一部10階)の島内最大の高層アパート(317戸)。終戦直前の1944年に建設が始まり1945年に北棟が完成、戦後の1949年に東棟、1958年に南棟、と全体が完成するまで10年以上の年月がかかったため、初期の住戸は共同トイレなのに対して後期の住戸は内トイレであったりと、新旧でかなりの違いがあったようです。
1階には歯科医院、美容理容室やその他の商店があり、屋上には幼稚園(保育所)と屋上庭園、コの字型の中庭には、ブランコや滑り台などの遊具が並ぶ端島公園が設けられたそうです。(端島公園は木造の炭坑長屋が並んだ木造住宅を1958撤去後に設置)
手前の建物は左がRC4階建ての「端島病院」、そのすぐ右側の白っぽい建物の上部が見えるのは「隔離病棟」。
軍艦島の過密だった住宅街
病院を過ぎるとそこは大小さまざまなRC造のアパートが所狭しと軒を連ねる住宅街。下写真では、右手から5階建て48号棟(20戸)、8階建て51号棟(40戸)と各階通路で繋がった9階建て16号棟(16〜20号棟は日給社宅で全241戸。写真で見えない16号棟の後ろに17〜19号棟と7階建て20号棟が続く)、5階建て59〜61号棟(各17戸)の鉱員住宅、4階建て66・67号棟の鉱員合宿、上部に3階建て2号棟(9戸)、4階建て3号棟(20戸)、5階建て14号棟(15戸)の職員住宅などが確認できます。
59号棟付近の防波堤に「めがね」と呼ばれた旧船着場(閉山の頃は船着き場としては使用されておらず、海中投棄のゴミ捨て場となっていた)の出入口も船上から見ることができました。
軍艦島の住宅事情
ピーク時には5000人もの人々が暮らしていたという軍艦島。はじめのうちは低層の木造だった住宅は火事災害も多く、また台風被害の備えと人口増加による高層化を目的として大正期以降RC高層アパートに建て替えられていき、1970年には高地の職員住宅を除いてほとんどがRC化されていたといいます。
鉱長社宅を頂点として幹部職員、職員、公務員、鉱員、下請け労務者の順に、住宅格差が明確に反映されており、各住棟はさまざまな連絡通路で繋がっていたとのこと。家賃はほとんど無料で、光熱費も極めて安かったそうで、人口が減ってきた1960年代後半以降は2戸を1戸にするなど、家族用住宅を単身者にも開放する改善がなされたようです。
端島銀座付近と端島神社の本殿
住宅街の背後に見えたのは端島神社の鳥居(一部)と本殿。神殿の下にあった拝殿等は倒壊しているそうですが、本殿自体は細長い支柱でありながら崩壊もせずとてもきれいな状態で残っているように見えます。またその周りに勢いよく空に向かって伸びる生き生きとした木々が印象的でした。
船上から見ることができませんでしたが、写真右手の16号棟の前には建物の間を蛇行しながら端島神社に続く「地獄階段」と呼ばれた階段があります。後日、軍艦島の写真集で年代別の地獄階段を見ることができましたが、味わい深いユニークな景観です。
外洋に面した北西側の建物
外洋に面した北西側は波が高いため防波堤も高くつくられています。(高波で流れ込んだ海水は防波堤に開けられた排水口から排出)
写真右手の建物はRC6階建ての31号棟(51戸)は、防波堤のような造りで島を守っていた白亜の鉱員住宅アパート。元々は商店街だったという外海に面するこのエリアは、1956年(昭和31年)の台風で壊滅的な被害を被ったため、商店街は日給住宅などに移転し、左手に見えるRC5階建ての48号棟(20戸、地下にパチンコ店・雀荘)に次ぐ2番目の防潮棟として、2K・50戸の鉱員住宅が建設(B1に共同浴場、1Fに郵便局と理容店)されたそうです。(48号棟の隣のRC8階建て51号棟の防潮棟は1961年に建設)
31号棟と48号棟の間には、1927年(昭和2年)に建設されたアールデコ風の映画館「昭和館」があったそうですが、閉山後の1991年(平成3年)の大型台風直撃でほぼ全壊してしまったとのこと(おそらく中央の白っぽい建物は39号棟の公民館)。防波堤近くの建物が崩壊しているため、背景の岩山に沿ってつくられた階段や斜面の現在の様子が船上からも確認することができ、また頂上の貯水槽前にあった木造の職員クラブハウス(7号棟)もすでに崩壊しているようで、岸壁に生い茂る草にその木片が散乱しているのが見えます。
ボタコンベアが貫通していた31号棟
くの字型をした31号棟の鉱員住宅に大きく開けられた穴(3階左側)は、ボタコンベア(選炭過程で製品にならない残土や石などを運ぶコンベア)の通り道の跡。
かつてここに商店街があったときは、岩礁に開けられた穴から伸びるコンベアは木造の商店を縫うように設置されていたそうですが、1956年の台風によって商店が壊滅した後31号棟が建てられ、岩礁に別の穴を開けるのは至難の業ということで、建物側の2-3階部分にコンベアの通り道を造ってしまったのだそう。現在はその様子を伺い知ることはできませんが、想像するにとてもユニークな形状のアパートだったんですね。
外海側から眺める軍艦島
こちらは外海側から眺める軍艦島全景。背景には長崎半島が見えます。
いよいよ軍艦島に上陸!
長崎港を出発してから約1時間半後の3時半にドルフィン桟橋に到着。いよいよ軍艦島に上陸です!ちなみに軍艦島は岸壁に囲まれている上、水深のある外海で接岸建設が困難だったため初期は小舟で岸壁の斜路に着岸していたとのこと。その後クレーン式の桟橋が建設されたりと試行錯誤の末、1954年島の南東にできたのが頑丈なドルフィン桟橋。ところが2度にわたる台風被害(1回目7m、2回目10mの高波)により桟橋が流出してしまい、現在のドルフィン桟橋は、より強固に再建された3代目(1962年建造)の桟橋なのだそうです。
見学通路があるのはドルフィン桟橋から島の南西側の一部のみ。見学広場が3箇所あり、歩ける場所は限られています。当然ながら建物内に入ることもできません。いつ崩壊してもおかしくない危険な建物ばかりですからね…仕方ありません。北東側の鉱員住宅や端島小中学校付近は船で周るときにしか見れないのでしっかり写真と動画撮影で残しました☺︎
殺伐とした風景が広がる「炭鉱関連施設跡」
桟橋を渡って防波堤を貫通するトンネルをくぐると最初に現れるのが、石炭を選別する装置が置かれていた水洗機ブロワー室。早い時期に建設された建造物は鉄筋コンクリート造ではなく、レンガをコンクリートで固めていた施工だったようです。
炭鉱から掘り出された石炭は質の悪いものや残土が取り除かれたあと貯炭場に集められ、ドルフィン桟橋横の積込桟橋から船で運び出されていたそうですが…ほとんどの炭坑関連施設は倒壊しており殺伐とした風景が広がっています。
遠目ですが、見通しが良いので70号棟の端島小中学校が望遠レンズでよく見えました。
集められた石炭を船に運ぶためのベルトコンベアー跡。現在は巨大な支柱のみが残されています。
岩礁最頂部に建つ「3号棟(幹部職員用住宅)」
岩礁最頂部には1959年(昭和34年)に建設されたというRC4階建ての3号棟「幹部職員用社宅」が見えます。課長以上の職員や病院の医師など身分の高い人のアパートで、眺望抜群の屋上は若者たちの格好のデートスポットだったそうです。
かつて軍艦島は「緑なき島」と言われたそうですが、現在の島内にはいたる所に草木が生い茂り、天空の城ラピュタの世界感を彷彿とさせる風景が広がっています。
炭坑施設が見渡せる「第1見学広場」
第1見学広場ではすでにガイドさんによる説明が始まっていました。通常は第1・第2・第3見学広場と順にガイドをしながら移動するようですが、この日は海の状況がよろしくないということだったのか、「写真撮影などはあとにして、まずは第3見学広場に集合してその後船に戻りながら各自見たいところを見学するようにして下さい」というアナウンスがあり、第3見学広場に直行ました。
すぐ目前に30号棟が見える「第3見学広場」
第3見学広場からは、1916年(大正5年)に建設された日本最古の7階建てRC高層アパート「30号棟(6畳一間の1K・145戸)」がすぐ目の前!光を採り込むために建物の中央に造られた四角い吹き抜けの中庭があり、そのまわりに階段が設置されたというユニークなアパートです。
現在の30号棟は壁や床の崩落が進んでおり、倒壊の一歩手前でかろうじて立っているような状態…。つい最近も見学中に建物が崩れて大きな音が聞こえたそうです。海に囲まれた軍艦島は島内を横切る大波など、かなり過酷な環境なのですね…。
2021年11月23日付けの長崎新聞には、30号棟は予測調査で「余命半年程度」とあり、2024年10月現在かろうじて形を留めている建物を見ることができましたが、大雨や強風が直撃したら一溜まりもなさそうです。
長崎新聞の記事には「15年9月を起点にした「余命」は▽30号棟(建築1916年)6.7年▽16~20号棟(同18~22年)26.2~49.2年▽65号棟北棟、東棟、南棟(同45~58年)18.1~77.7年-など。 市世界遺産室によると、7階建ての30号棟では昨年3月、南側の5階から屋上にかけ梁や外壁、床の一部が崩落」という記載がありました。
軍艦島では島全体で急速に劣化が進んでおり、30号棟の修復・保存はすでに不可能と判断されているようですが、島の維持に重要な護岸や石積みの擁壁を最優先に、炭坑の生産施設、高層アパート群の順に、今後も整備が進めらていくようです。
海上の船から眺めた30号棟。近年における30号棟の写真と見比べると風化が加速しているのが顕著に分かります。ガイドさんもこの姿が見られるのは今日限りかもしれませんとおっしゃっていました。
採炭関連施設ほか
写真左上より25mプール跡、貯水槽と灯台、総合事務所。写真左下より仕上工場、第二坑捲、会議室。炭坑関連施設のまわりには、石ころのようになったコンクリートの残骸がゴロゴロと転がっています。
総合事務所と第二竪抗入坑桟橋跡
左写真は総合事務所のかろうじて残るレンガ積みの壁。鉄骨のようなものが見えるは保存工事による補強のようです。 右写真は主力坑であった第二竪坑へ行くために設けられた「第二竪抗入坑桟橋跡」で、桟橋への昇降階段部分がかろうじて残っており、こちらにも階段を支える鉄骨のようなものが見えます。
住民のライフライン「海底水道取込口」
総合事務所辺りの防波堤に海底水道の取込口を見ることができました。右写真の右下に見える開口部が海底水道取込口です。(対岸から6500mの海底から伝ってきた水道管は、この水道取込口から灯台横の貯水槽にポンプアップされ落差圧で各アパートに送られた)
1957年(昭和37年)に、この国内初という海底水道が完成するまでは、毎日水船で市内から水を運んでいたそうで、また水船の導入前は、製塩基を使って蒸留水をつくり水券を配給して飲用などに使用していたのだとか…。
元来軍艦島には湧き水がなく、炭坑発展の歴史の中で水不足は常につきまとっていたようで、1967年(昭和42年)に10万tの貯水池が完成したことでようやく水問題が解決したそうです。
軍艦島 ありがとう!
上陸時間は予定を15分短縮した30分という短い時間でしたが、上陸することができて良かったです。
行きと帰りと、軍艦島の上空に南へ北へと飛んでいく龍のような鳳凰のような雲が現れて、その光景は龍鳳呈祥を彷彿させる趣で、感極まりました。
あとがき
1974年に閉山した軍艦島を半世紀後の沖合から眺める姿は、まさに軍艦の形を保ったままの勇姿で鳥肌が立ちました。
軍艦島の完璧な外観の印象とは裏腹に、間近で見る建物がたかだか50年でここまで崩壊してしまうものなのかという驚きと、緑なき島と言われたコンクリートの町に今や草木が生き生きとして生い茂っているという驚き…人はいなくなったけれど別の生命が静かに生きている…。荒廃し朽ちていくものの切なさ もの悲しさと同時に、愛しさが満ちてくるような、とても不思議な感覚に包まれました。
かつてこの島にたくさんの人々が生活し繁栄したという過去の確かな実感と、荒れ果てた遺構にもはや誰一人住んでいない無人の島という現実の確かな実感….、過去と現在が交錯する世界観に魅了されます。
その恍惚感は、ひとつの街として人々の暮らしがあった痕跡を目前に想いを馳せる喜びというのか…過去から未来に向かって造られていく長い歴史の中で遺構群の朽ちていく過程の貴重な瞬間を今ここで目撃している感動というのか…基礎だけがかろうじて残っているような古い遺跡に感じる哀愁とは全く異なる感覚の、素敵な時空に舞い降りたような、とても素晴らしい体験でした。
ひょんなことで訪問した軍艦島…なぜもっと早くこの魅力に気づけなかったのかが悔やまれますが、今後の軍艦島に注目しつつ、またいつの日か訪問できることを願いながら、これからの軍艦島を見守っていたい。そんな風に思います。