2024年9月中旬、東京から青森へと車を走らせ、2泊4日のロードトリップに出かけました。今回の旅では、美しい自然と美味しい食べ物を堪能する中、太宰作品で描かれた風景を実際に訪れ、太宰治の生きた時代や感…
【青森・五所川原】太宰治ゆかりの地① 生家「斜陽館」を訪問 〜太宰文学の原点に出会う〜
目次
太宰治の生家「斜陽館」へGO!
2024年9月の連休に東京から青森へロードトリップすることになり、以前から訪問したいと思っていた太宰治の生家「斜陽館」を訪ねました。斜陽館は青森県五所川原市の金木町中心部にあり、津軽鉄道「金木駅」より徒歩約7分のアクセス。車の場合は斜陽館前の道路を挟んだ金木観光物産館 産直メロス前に無料駐車場(約50台)があり、そちらを利用することができました。
現在、国重要文化財となっている五所川原市所有の斜陽館は、太宰治(本名:津島修治)が生まれる2年前の1907年に建てられた津島家の邸宅で、太宰作品の「思ひ出」「帰去来」「故郷」「津軽」などの作品にも登場します。
戦後津島家が手放したあとの1950年(昭和25年)に旅館「斜陽館」として生まれ変わり、1996年(平成8年)に旧金木町に買い取られて営業終了するまでの46年間は、全国から多くのファンが訪れたそうです。
その後1998年(平成10年)に太宰治記念館「斜陽館」として公開され、2004年(平成16年)に国重要文化財に指定されました。
斜陽館の入館料と開館時間など
入館料 :一般600円、高・大学生400円、小・中学生250円(団体割引、津軽三味線会館との共通券あり)
開館時間:9:00〜17:00
休館日 :12月29日
所在地 :青森県五所川原市金木町朝日山412-1
電話番号:0173-53-2020
広い土間の手前に事務所があり、太宰治グッズや土産品なども販売しており、帰り際に青森ヒバの香り袋を購入しました☆
斜陽館フロアマップ
1階は茶の間・座敷・仏間など11部屋、2階は洋間・和室など8部屋があり、庭園と合わせて約680坪もの大豪邸です。
土間→米蔵→文庫蔵展示室→1F→2F→休憩室の順に見学しました。
斜陽館1階
11部屋ある1階の広さは278坪。玄関を入って最初に現れるのは、家の中でありながら靴のまま入れるタタキと呼ばれた土間。間口約4.5m、奥行き約22mと、かなり広めの長方形(約90㎡/30坪)で、収穫の秋になると大勢の小作人が米俵を積み上げ米の検査をした場所でもあったそうです。
米蔵と浴室跡
土間の先に進むと浴室跡と中の蔵・米蔵があり、奥の米蔵では太宰治生誕110年に向けて制作されたという3作品のショートムービー(「斜陽のこころ」「ニンゲン、シッカク」「太宰治への伝言」上映時間各10分)を上映していました。こちらはユーチューブでも見られるということで先へ進みます。
吹き抜けの板の間
邸宅東側の囲炉裏を囲むように広がる板の間は、吹き抜けとなっている開放感のある空間。太宰治は小説「津軽」の中でこの邸宅を「風情も何も無い、ただ大きいのである」と書いていますが…、トンデモナイ!大きいばかりでなく、もう目を見張る美しさで、大変風情のある邸宅です。
設計は明治時代の青森県において洋風建築(旧第五十九銀行本店本館や旧弘前市立図書館など)を多く手がけたという大工棟梁「堀江佐吉」で、総工費は4万円(現在の7-8億円)だったとのこと。日本三大美林である青森ヒバを使って建てられたといいます。
常居(じょうきょ)
板の間の前に常居があり、その先に茶の間と座敷と2階につづく階段が見えます。
交換手式電話と元台所跡
板の間の前に常居、その横に2階へ上がる階段と交換手式電話(それぞれ扉あり)、板の間の奥に旧台所(赤レンガの古いカマド)がありました。
ちなみに青森県で最初に電話の交換業務がはじめられたのが1905年(明治38年)の青森市・青森郵便局だったとのことなので、電話ひとつにしても津島家の権勢をうかがい知ることができます。
文庫蔵展示室
板の間を通って入る文庫蔵は、太宰治と弟の礼治が掛軸や写真を眺めていたという場所。少年にとっては秘密基地のような遊び場だったのでしょうね。また、よく蔵の石段に座って子守のタケさんにご飯を食べさせてもらっていた場所でもあるそうです。
現在は資料展示室となっていて、太宰治が着用していた二重廻しのマントや羽織袴などの愛用品をはじめ、執筆した初版本、直筆原稿、書簡など約300点が展示されています。(文庫蔵内撮影禁止)
文庫蔵前(下図参照)の引き戸から渡り廊下を進んだ先に太宰一家が疎開した新座敷(離れ)があったのだそうで、斜陽館見学後は、約90m東へ曳家されたという旧津島家新座敷「太宰治疎開の家」を訪ねました。ブログ記事はコチラ
小間(太宰治誕生の部屋)
太宰治は、1909年(明治42年)6月19日夕刻、地主である父・津島源右衛門と母・夕子の、6男10番目の子どもとして、この部屋で生まれました。とても安産でした。新築された邸宅の裏階段北側の10畳間は、もともと叔母きゑの部屋でしたが、ここが産室にあてられました。母が病弱だったため、幼少の太宰は叔母きゑに育てられたそうです。この部屋は、きゑの娘と共に暮らした、思い出深い部屋です。(案内板より引用)
縁側・庭園と来客用厠跡
小間からは綺麗に整えられた庭園が見えます。井戸もありますね。長い縁側の先にある来客用のトイレ跡は、とても明るく床に敷かれたタイル、照明、窓ガラスなど洒落たモダンスタイルです。
金融執務室
「店」とよばれたこの場所では、津島家の商売である個人向けの金融業と総合的な事務が行われていました。地主である津島家には、最盛期に小作人が300戸近くもいたそうです。農業には「秋払い」という秋の収穫を見越して先にお金を貸すシステムがあり、小作人と帳場の人の話し合いや相談などが行われていました。しかし太宰は、家の商売はあまり好きにはなれなかったということです。(案内板より引用)
太宰治は大学に進学後マルクス主義(賃金労働者の開放 社会主義を実現するための階級闘争)に傾倒。恵まれた環境に生まれながら、それに抗う人生をチョイスしてゆくという…そこが太宰治という人の魅力、太宰文学の面白さでもあるのでしょうが…☺︎ 物事を多面的に捉え、それゆえに複雑な心理が形成され様々な障壁によって混沌の中をもがきつつ実直に生きた人..そんな太宰治の人物像が心に浮かぶ大豪邸の中の金融執務室でした。
ちなみに明治時代に津島家が営んでいた金木銀行は青森銀行へと引き継がれ、現在も青森銀行金木支店として斜陽館前に存続しています。
大広間の仏間と座敷
仏間に鎮座するのは、邸宅竣工に合わせて太宰治の父・源右衛門が特注したという高さ189cm、幅115cmの巨大な京都の御仏壇。彫刻などの細工が素晴らしく、綺羅びやかでとても豪華です。(宗派:浄土真宗東本願寺(大谷派)、菩提寺:南臺寺/なんだいじ)
斜陽館2階へ
8室ある2階の広さは116坪。2階に上がる階段は4方向に広がっていて迷路のよう!床面は踏み面までピカピカに磨かれています✨️
洋間と和室
外観は和風住宅であるものの、明治末期の時代の風潮を受けて和洋折衷建築がとられ、1階の店舗をはじめ2階に続く階段や応接室は洋風建築が取り入れられています。
2階には、洋間・控室と6つの和室があり、一番広い洋間の応接室には当時のままの調度品が残されており、小説「津軽」に出てくる長椅子もありました。
中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し…(太宰治 小説「津軽」より)
太宰治の父母の居室
父・源右衛門が使用していたという主人室(写真左上)と母の居室(右下)。源右衛門は1912年の衆議院議員に当選(のち貴族院議員)後は東京へ出向くことが多くなったため、金木で過ごすのは1-2ヶ月に1度の1週間程度だったのだとか。また、父亡き後は、長兄・文治が主人室を使用したそうです。
母の居室とある部屋は、実際は子どもたちの遊び場として使われ、太宰治はこの襖の前に机を置いて勉強していたそうです。左から2番目の襖に書かれた漢詩に「斜陽」の文字が見られます。
1階の休憩室
1階と2階をじっくりと見学した後は、靴を履いて1階の休憩室へ。
当初は女中部屋で、その後炊事場となっていた場所だったという休憩室には、古い棚や机、椅子などが設置されています。その古家具のほとんどが斜陽館の蔵の中や五所川原市内の閉校になった小学校から調達されたものなのだそう。良い話ですね✨️
こちらでは斜陽館に関するビデオが繰り返し流されており、太宰治全集や太宰治に関する本なども読むこともできます。二重廻しのマントがあったので羽織ってパシャリ☆ 小上がりの机の前に座ってパシャリ☆ 館内は文庫蔵資料室以外は写真もビデオ撮影もOKということで、たくさん記念撮影ができて良かったです♪
太宰治記念館「斜陽館」
青森県五所川原市金木町朝日山412-1
0173-53-2020
斜陽館を見学したあとは、すぐ隣の駐車スペースで販売している手作りのリンゴアイスを買い、食べ歩きしながら「太宰治 疎開の家」に向かいました。
▼「太宰治 疎開の家」のブログ記事は下記リンクより御覧ください☆